Sunday, November 19, 2017

第69回正倉院展に行きました

第69回正倉院展 11月13日まで
今年69回目となる正倉院展は11月13日に終了した。手術後のリハビリで外出など思いもよらないと諦めていたが、毎年秋の恒例行事になっているので、行ってみた。
長い時間を待つのは、体力が持たない。ネットで調べると、16時以降なら空いているとの情報があり、それを信じて入ると、待ち時間10分。でも中は空いてるわけでもなく、人気の出展品には行列が続いている。毎年、新聞やTVで目玉出展品の紹介があるのに、今年は余り目にしなかったが、ポスターになっている「羊木臈纈屛風 (ひつじきろうけちのびょうぶ)」と「緑瑠璃十二曲長坏 (みどりるりのじゅうにきょくちょうはい)」が目を引く。

羊木臈纈屏風図
巻角の羊
羊木臈纈屛風 (ひつじきろうけちのびょうぶ)
臈纈(ろうけち)とは、いわゆるろうけつ染め手法のこと、日本や中国には居なかったはずの巻角の羊が大きく描かれている屏風の残欠。当時の人達はこの動物を何だろうと思ったに違いない。羊が樹下に立っており、樹上には2頭の猿が遊び、下方には山頂に樹木が小さく表された険しい山が見える。山の左方の頂き近くには1頭の子鹿も添えられている。
巻角(まきづの)の羊や樹下に動物を置く構図は、ササン朝ペルシアの美術に由来するらしいが、下端に墨で、天平勝宝3年(751)わが国で製作されたことを示す墨書が残されている。遣唐使が持ち帰った図柄を元に当時の最高の技術者と資金を投入して作られたと考えられる。現物は退色した黄色が主体だが、古代の染料を分析し、再現したところ朱色,黄色と緑の鮮やかな染料が使われており、とても綺麗な絵だったことが判明した。使われた技術が余りに精緻で、高度だったため後世に伝えられなかった。いわば天平時代だけに花咲いた芸術作品である。出展品全てに言えることだが、1300年も昔の美術品、しかも染ものがこんなにきれいに残って今も鑑賞に耐えるというのは、世界に誇れることではないか。

緑瑠璃十二曲長坏 (みどりるりのじゅうにきょくちょうはい)
長い行列の出来ていた出展品の一つ、見ただけで美しさが際立つガラスの器だ。まるで江戸切子のような柄が刻まれており、黙って出されたらきっと現代のものと思うだろう。
緑瑠璃杯
色と形、模様が現代的
また、形が杯とは言いながら、楕円形をしており、長径22.5cm、短径10.7cmと大振りである。濃緑色のガラス製の長楕円形の杯は、ササン朝ペルシア時代の遺品に多い。長側面の両側に半月形のひだが3段ずつ付き、口縁に12の波ができることから十二曲長坏(じゅうにきょくちょうはい)とよばれる。ゆるやかな曲面に沿って植物文様が刻まれ、長側面の口縁近くにはうずくまるウサギ、短側面にはチューリップに似た花輪がある。鉛ガラス製で、鉛分を多く含んでいることから中国製と考えられており、異国情緒を感じさせる品だ。
玉の尺八
大理石製、どのようにして
作ったのか、まるで竹製

玉尺八 [ぎょくのしゃくはち] (石製の縦笛) 
唐の2代皇帝・太宗のときに作られた古代の尺八は、当時は孔が前面5箇、背面に1箇あり、今日の尺八が前面を4箇とするのとは異なったようだ。 この品は『国家珍宝帳(こっかちんぽうちょう)』に「玉尺八一管」と記されており、聖武天皇ゆかりの尺八で、実際に使われていたそうだ。玉(ぎょく)と呼ばれているが大理石製である。尺八は本来竹製だが、大理石のような硬い石を用いながら3節の竹管を忠実に表現している。見事な造形、一体どのような方法で作ったのか、旋盤もない時代に大理石をくり抜いて、彫刻としても素晴らしいのに、ちゃんと楽器として機能するように造られているも驚きだ。

金銅水瓶 [こんどうのすいびょう] 
鳥の頭が注ぎ口になった
水差し
(金メッキの銅の水差し)鳥の頭形の注口が面白い銅製鍍金の水瓶。胴体は扁平な球形で、上に広口の受水口、下に裾広がりの高台、そして鳥の頭形注ぎ口に続く細長い頸部が側面に接続している。鳥頭のとさかの表現から、これは鳳凰を表しているらしい。受水口の頸部や高台には花弁が刻まれている。全体を10数箇に分割して打ち出しで作り、複数の材をろう付けと鋲留めを組み合わせてつなぎあわせ、鍍金をして仕上げるという工程がとられている。 
これ以外に同様の品が知られていないエキゾチックな形の水瓶で、高度で複雑な技術をもって作り上げられており、非常に珍しい金工品である。

正倉院御物を通して、遣唐使の役割がとても大きかったことが分かる。遣唐使は、当時世界トップの国際都市だった長安から、仏教を中心にした万能の科学として、政治制度、土木、医薬、工芸、哲学などの先端技術と文化全般伝えた。奈良時代は人の青春時代の様に、新しいことへチャレンジして、唐に追いつきたいとエネルギッシュに活動した奇跡の時代だった様に思える。


紅葉にはまだ早かったが、庭園内の紅葉が1本だけ
きれいに色づいていた

 

Monday, September 25, 2017

手術ロボット<ダビンチ>で胃全摘手術を受けました

執刀医が座るのは操縦席(左側)
手術ロボット ダビンチのことは読んだことがあったが、まさか自分が、それを使った手術を受けるとは想像もしなかった。
ダビンチでの手術の様子
奥に執刀医が操縦席から操作している
手術ロボット ダビンチはDARPA(アメリカ国防高等研究計画局)が、イラク戦争激化に備えて遠隔手術を可能にする手術ロボットの開発を始めたのがきっかけである。1990年ごろから開発が始まった。イラク戦争終了後、米国のインテュイティブ・サージカルが1999年からダビンチの名称で内視鏡手術支援ロボットとして販売しており、世界トップシェアを誇る。同社の技術は、DARPAのプロジェクトとして、50~100億円ともいわれる軍事予算で開発された。DARPAについては、以前自動運転車のブログに登場している。

ダビンチ(da Vinci)の特徴として
これがダビンチのセット
2億5千万円くらいする
1.遠隔操作でアームを動かす…鏡視下手術の発展型
ダビンチによる手術は、これまでの鏡視下手術(腹腔鏡・胸腔鏡手術)にロボットの機能を組み合わせて発展させた手術法で、執刀医は、手術台から数メートル離れた場所で、カメラから送られてくる患者の体内の3D画像を見ながら、両手と両足を使ってアームを遠隔操作する。従来の腹腔鏡下手術では医者の動きや視野に制限があり、医師が2つの手に鉗子を持つが、「医者は、手首の回転などが十分にできず、腕に添え木をされているような感覚」とよく言われている。また、内視鏡も平面的で奥行きのないいわば2D画像であった。
2.ダビンチには「関節」があり、人間の手以上に微細な動き、すなわち、3本または4本のアームを執刀医が自由に操作することができる。さまざまな形状の鉗子は人間の手と同等以上の可動域がある。毛筆で米粒に漢字を書くような細かい作業も可能。「人間の指のように自在に曲がる、いわば『関節』を持った手術器械が体の中に入り作業する」感覚だという。手の動きはダビンチでは縮小できるので、微細な動きが自由自在となる。
3.ダビンチは、手先の震えが鉗子の先に伝わらないように手ぶれを補正する。高い集中力を必要とする細かな作業でも、正確に操作をすることができる。
4.モニター画像は3D(立体)で10倍に拡大できる。「奥行きのある視野のもとで手術をすることができるため、まるで人間が中に入って操作しているように作業できる。ダビンチでは、部分切除が難しい場所であっても難なくこなせる」。操作性が増し、血管や神経などを傷つけるリスクが小さくなる。
5.患者にとってのメリット
・腹腔鏡下手術と同様に傷口が小さいため早期の社会復帰が可能
・開腹手術と比較すると、極めて少ない出血量。術中に輸血が行われた例はほとんどない。私の場合、執刀医によると、切除の出血量は100cc以下だったそうだ。
・傷口は、鉗子を挿入する8~12mmほどの幅で、最大で6カ所(私の場合5箇所)
・小さな傷口のみで行われるため、皮膚や筋肉を切開した痛みはほとんどない。確かに開腹しないので縫合の痛みは少ないだろうけど、やっぱり切除部分は痛む。
・傷口が小さいため、術後の回復が早い傾向にある。開腹手術に比べ、入院期間が1週間以上短くなる。私の場合、9月13日手術、23日退院。
・鉗子の操作性が格段によくなったため、細密な動きによって機能が温存できる可能性が期待できる。最近日本でも心臓手術に大きな成果を上げていると言われている。

私の場合、手術の2日後には、もう歩くことができたし、胃全摘にもかかわらず、3日後には重湯を食べられるようになった。看護師長と話していたら、開腹手術はもちろん、通常の腹腔鏡手術の術後に比べて、遥かに手術のダメージは少ないと言われた。
現時点では、保険適用にならないのでかなり高額な手術だが、術後の医療負担がかなり軽減されると予想され、処置例を増やして、できれば、来年には保険適用にしようとする動きがある。施設によるが、前立線手術では保険適用されている病院もあると聞く。
ダビンチは高額な装置で1セット2.5億円もするので、大手病院、大学病院でないと投資が難しいかも知れない。
ダビンチ手術の医師を増やし、広い領域をカバーする動きがあり、あらゆる手術がダビンチで可能になれば、誰でも神の手を持つ外科医になるだろう。
さらに、過疎地や、有能な専門医のいない病院でも、将来はリモートから、お望みの手術を受けられる時代がそこまで来ていると予感する。

Sunday, September 10, 2017

日本の三如来とは?

日本の三如来と言われる仏像があり、長野善光寺・阿弥陀如来像、京都清涼寺・釈迦如来立像、京都因幡堂・薬師如来立像の三体を指す。
いずれの仏像も、天竺由来が共通点だ、いつ頃から言われているのか、誰が言い出したのか不明だが、各々の寺院で言い伝えられているらしい。

京都 烏丸松原
因幡薬師堂(平等寺)
京都因幡堂の仏像は初耳で、知らなかった、烏丸松原にあり、正式名は平等寺と言う。早速、出かけて見た、バス停烏丸松原の前が直ぐ入り口になっていて、分かりやすい。
コロのついた厨子の中に居られ
頭に緩衝用の頭巾を着けている
京都因幡堂 薬師如来像とは。
長徳3年(997)、橘行平(たちばなのゆきひら)が因幡国へ下向し、その地で病にかかるが、夢の中で「因幡国の賀露津(かろのつ)の浦に貴い浮き木がある。それは仏の国(インド)から衆生を救うために流れついたものである。それを引き上げてみよ」と告げられ、その地に赴くと薬師如来像があり引き上げられた。仮堂を造り像を安置したが、行平が都に戻ると、薬師像は自ら行平邸に飛来したので、行平は自宅を寺として安置。これが因幡堂の始まりで、行平は寛弘2年(1005)、因幡国司となり、のち因幡堂は栄えたと説く。行平がこの年に因幡国司となったことは『御堂関白記(みどうかんぱくき)』などによって史実であったことがわかる。「東の国の人々を救うためにやってきた」という因幡の薬師如来。病気平癒や子授け、安産の仏様としても多くの人々に親しまれているが、特に“がん封じ”のご利益があると言われ参拝客が絶えない。



長野 善光寺 本堂
長野善光寺は行ったことがない、御本尊は永久秘仏だし、模鋳した御前立でさえ7年に一度しか御開帳されない秘仏となっている。日本の仏教伝来公伝に伝えられる逸話にある仏像と言われているのがミソ。
模鋳の御前立
それも7年に一度の御開帳
長野善光寺の阿弥陀如来像とは。
『善光寺縁起』によれば、御本尊の一光三尊阿弥陀如来様は、インドから朝鮮半島百済国へと渡り、欽明天皇十三年(552年)、仏教伝来のおりに百済から日本へ伝えられた日本最古の仏像といわれている。この仏像は、仏教の受容を巡って崇仏・廃仏論争の最中、廃仏派の物部氏によって難波の堀江へと打ち捨てられたとされる。後に、信濃国司の従者として都に上った本田善光が信濃の国へ持ち帰り、はじめは今の長野県飯田市でお祀りされ、後に皇極天皇元年(642年)現在の地に遷座した。皇極天皇三年(644年)には勅願により伽藍が造営され、本田善光の名を取って「善光寺」と名付けられた。
昔からの秘仏であり、誰も見たことが無い。江戸時代偽物論議があり、1692年12月14日、敬諶が秘仏の善光寺本尊を検分・報告している『善光寺由来記』。それによると破損があるが、中尊は高さ一寸五尺(約45cm)で重さ六貫三匁(約24Kg)、脇侍は高さ一尺(約30cm)で重さ百七十匁(約0.6Kg)だったという。模鋳した仏像を御前立としてつくり7年に一度御開帳される。


京都嵯峨 清涼寺 山門
京都嵯峨野の清涼寺・釈迦如来像は何度もこのブログに登場している仏像で、日本中に模刻が広まっている。インド風の作りになっており、布製の内蔵も体内に収められていて37歳のお釈迦様を写したとされるリアルな釈迦像だ。
薄い衣を通して
体の線がきれいに出ている
日本中で模刻された
 京都清涼寺の釈迦如来像
紀元前5~6世紀の釈迦が存世中、古代インドの国王で熱心な仏教徒であった優填王(うでんおう)が、釈迦を思慕するあまり、釈迦の姿を彫刻させた。その像は『優填王思慕像(うでんおうしぼぞう)』と呼ばれ、仏教徒たちの信仰を集めることとなった。平安時代中期の東大寺の僧・奝然(ちょうねん)は、中国・宋に留学した際に、インドから宋にもたらされていた 『優填王思慕像(うでんおうしぼぞう)』を仏師に精密に模刻させ日本へ持ち帰った。奝然(ちょうねん)は、これを本尊として京都の嵯峨に清涼寺を創建し、奝然(ちょうねん)没後に弟子の盛算により寺は完成、以来、この釈迦如来立像が安置されている。古代インドのガンダーラの仏像と似た縄を編んだような頭髪、ボディラインに張り付いた薄い衣の衣文、エキゾチックな深い彫りの顔には、当時の日本の仏像にはない異国情緒がある。また、胎内に布で造られた五臓六腑の模型が納入されていることからも「生身の釈迦として造られた像」と考えられる。これを手本として、鎌倉時代には「清涼寺式釈迦如来像」といわれる模像が日本各地で流行した。

Monday, August 21, 2017

アフロヘアーの仏像と西大寺の仏像展


五劫院
アフロヘアーの阿彌陀佛
西大寺の仏像展が、阿倍野ハルカス美術館で開催されたので覗いてきた。また、8月1日から12日まで特別拝観中の奈良五劫院・アフロヘアーの阿弥陀坐像を訪ねた。
清涼寺式釈迦立像の模刻
まずは、西大寺の仏像展から。西大寺は以前にブログにもアップしてあるので、同じ仏像を見ることになるのだが、寺院で拝観では発見できない部分もある。今回の展示会でその観を強くした。すなわち真横や真後ろに周ることができるので、見えなかったところから新たな面白さが見えてくる。
西大寺の清涼寺式釈迦像模刻はとても有名だが、実は快慶も後白河上皇の依頼で模刻を作ったことがあったそうだが、火災で焼失してしまい現在模刻像は残っていない。仏像を今回、真横から観ることが出来た。この仏像は両脇で身体を前後に割られている。いわゆる割剥ぎと言われる手法で、一本の木を半分に割り、内刳をして前見と後ろ身を彫刻し、最後に2つを合わせる作り方である。展示会で真横に回ってみたら、この割れ目がはっきり見えた。この模刻がこの作方なら、本物の京都清涼寺釈迦立像も同じ方法で造られた可能性も推測される。

浄瑠璃寺
吉祥天女像
さらに、京都浄瑠璃寺の秘仏である「吉祥天女像」が期間限定で西大寺展に展示されていた。こちらも以前のブログ浄瑠璃寺九体阿弥陀で紹介しているので、参照して欲しい。明るい照明の下で見る天平美女も美しい。仏像の中では女神像は珍しく、吉祥天女像と弁財天の2美女が有名で、日本では時々この2女神像が混同されることも多い。
どちらも古代中国の貴人風に飾られている、日本へ入ってきたのが中国唐時代なので、唐の貴族女性がモデルになってる。もとは、インドのヒンドゥーの神様で、幸運、豊穣、美を司るとされてきた。ギリシャ神話のアフロデーテ(ローマに入ってビーナス)と同じ役割なのが面白い。ちなみに吉祥天女は四天王の一つ多聞天の妻であり、母は鬼子母神だ。四天王として祀られる時は多聞天で、単独では毘沙門天となる。人妻で子持ちの仏像は他に無いのではなかろうか。
一方、弁天(弁財天)は、七福神の一員、神仏習合で神道に取り入れられ、竜神の化身と言われる、インド・ヒンドゥー教では川、あるいは水の神様である。その後、学問、音楽を司るとされた。七福神の弁天様は手に楽器びわを抱える姿で表現されている。
ギリシャ神話のミューズも音楽担当の女神で同じだ。

宋様式の仏像である
アフロヘアーをした阿弥陀様? 奈良東大寺の北側に五劫院と言う小さな寺院がある。普段は拝観できない(事前に予約を入れれば可能らしい)が、毎年、8月1日から12日まで特別に拝観できるので、行ってきた。特に定められた拝観料があるわけでもなく、各自お布施をする。賽銭箱が仏像の前に設置してあってお金を入れる、覗いてみたら沢山の千円札が入っていた。写真やTV番組で見たことはあるが、はじめて、間近で拝んだ。まさにアフロヘアーである。見方によっては可愛いおかっぱ頭にも見える。五劫思惟(ごごうしゆい)阿弥陀仏である。五劫院の劫とは、天女が3年に一度舞い降りてきて44里立方の大きな岩石を衣でふわりと撫でる、そうやってこの岩石がすり減って無くなるまでの期間を言う。五劫とはその5倍の年数を意味する。落語「寿限無」の中で言われる五劫の擦り切れとはこの意味である。インド人の数値感覚、空間認識などとても信じられないくらいスケールが大きい。五劫思惟阿弥陀が何故アフロヘアーなのか、「無量寿経」によると、阿彌陀佛がまだ菩薩の時代、世の衆生を救うために菩薩行に励み、五劫の間ただひたすら思惟を凝らし遂に菩薩から阿弥陀如来になられた瞬間を写した姿だと言う。長い時間と難行を表すため、髪の毛が伸び、うず高く螺髪がかぶさるように表現されている。
とにかく変わっていて、一度見たら忘れられないお姿をしている、五劫思惟阿彌陀佛に対する信仰は鎌倉時代にはじまったが、同じ様な仏像の作例はとても少ない。面貌や、厚い袈裟、両手を衣にかくすなどその姿は中国宋風のものだ。
五劫院 本堂


Wednesday, August 9, 2017

快慶展から

奈良国立博物館
快慶展のポスター
奈良国立博物館で「特別展 快慶 日本人を魅了した仏の形」が、本年4月~6月に開催され、見に行ってきた。快慶は日本のミケランジョロとも言うべき仏像制作の巨人だ。
伝説の仏師はすべて常朝から出ている
常朝は寄木造り、分業制度、仏像制作の標準化など
その後1000年の仏像の形を決めた巨人である
平安時代、仏師定朝が「仏の本様」と後世に謳われる理想的な仏の姿を作り出し、当時の人達は、これで仏像の形は決まりと思ったに違いない。
アメリカ キンベル美術館蔵
釈迦如来立像
快慶の初期のもの
ところが、鎌倉時代に入ってヨーロッパのルネッサンスに匹敵する人間的造形を、運慶が完成させた。しかし、その完成は快慶の活躍無くしては達成できなかったことだろう。快慶は平安朝の定朝にならんで日本の仏教美術史上に偉大な足跡を残した天才であり、今日まで仏像ファン一番の人気者である。運慶の作り出すダイナミックな筋骨隆々の仏像に対して、快慶は端正で親しみやすい姿に当時の貴族たちが仏の理想像を見たからだと思われる、この思いはまさに定朝の「仏の本様」と同じだ。

快慶の作品は、銘記や関係史料から真作と判明しているものだけで40件近く現存し、制作年が明らかなものも多い。また、東大寺、興福寺、醍醐寺のような大寺院だけでなく、由緒の明らかでない小寺院にも快慶の作品が残されており、いかに快慶工房の作る仏像が人気だったかを物語る。
仏師の中で仏像内に制作者、あるいは工房責任者の名前や仏像制作について記録が残されている事例としては、おそらく、快慶が圧倒的に多いのではないか。

安倍文殊院
文珠菩薩蔵
目がすごい
鎌倉時代になると、仏像マーケットは平安貴族から鎌倉幕府の武家達に移る。追い風となったのは東大寺再建プロジェクトだ、プロジェクトリーダーであった重源は慶派の仏像表現を好み、有名な東大寺南大門の仁王像など、次々と現代に残る仏像を制作させる。運慶の剛健な表現に対して、快慶は、むしろ藤原彫刻の風を受けたような、穏やかで流麗な、いわゆる「安阿弥様」なる様式をつくりあげ、当時から「ほとんど肩を並べることなき人」とまで讃えられている。わかりやすく、親しみやすさをもったその作風は、「定朝様」とならび、「安阿弥陀様」として仏像の二大潮流になり、以後の仏像彫刻に大きな影響を与える。
優雅な安阿弥陀様の仏像
醍醐寺 弥勒菩薩像
快慶仏に見られる特徴は、仏眼だと思う。鎌倉仏では目は玉眼となる、玉眼は、内刳りが行われて空洞になっている頭部の中から、目の部分に穴を開け、内側からレンズ状に目よりやや大き目の薄く磨いた水晶を当てて、木屎で止める。裏から水晶に直接瞳や目尻・隈、あるいは毛細血管を描き、綿または紙をあてて白眼を表す。最後にこれを木片で押さえて、木屎漆や竹釘で留めて完成する。平安後期から仏像作りに取り入れられ、よりリアルな仏顔となってくる、鎌倉時代には一般化する手法だが、玉眼専門の仏師が居たほど重要な要素だ。快慶工房は技術的にも優れていたに違いない。鋭くてそれでいて、優雅な眼差しを持つ仏像の目は、吸い込まれるように魅力的で、快慶仏独特のものだ。

東大寺釈迦立像
眼の表現が快慶
今回の特別展では動画、快慶ストーリーが公開されているので、御覧ください。

Saturday, August 5, 2017

社会に溶け込むIOT



クラウドファンディングを知ってますか? クラウドファンディングとは、「こんなモノやサービスを作りたい」「世の中の問題を、こんなふうに解決したい」といったアイデア
従来の資金調達方法
やプロジェクトを持つ起案者が、インターネットサイトを通じて、世界中に呼びかけ共感した人から広く資金を集める方法だ。クラウドファンディングは、資金や支援者へのリターン(特典)のあり方によって4つのタイプに分類される。




1.寄付形 集めた資金を全額寄付に充てリターンはなし、あしながおじさんスタイル
2.投資形 出資者がプロジェクトの利益から配当という形でリターンを受け取る
3.融資形 出資者が利子の形で一定のリターンを受け取る
4.購入形 支援者はお返しとして物やサービス、権利という形で特典を受け取る
クラウドファンディング
ネットで世界中からから
資金を調達する
簡単な商品やサービスを思いついて、人々に使ってもらいながら改善し育てたいという場合、資金をかけないで商品を少しづつ出し、利用者の反応を見ながら育てるスタイルが、クラウドファンディングでは多い。インターネットで商品を紹介し、希望者に買ってもらうことで、製品を世界中に広めることができる。製品が売れれば有名になり、ビジネスケースとして成功するかも知れない。リスクは殆どない。インターネットが世界中に普及したおかげで、ごく小規模なビジネスでも国際的に資金を調達できて、やりたいことをやれる時代が来ていることを実感する。

そんなクラウドファンディングサイトで見つけたのが、忘れ物防止用デジタルタグ TrackRだ。
              
鍵、ペットなどに装着しておくとiphoneから離れたら
音で教えてくれる。逆にTrackRを押すとIphoneを鳴らして
在り処を教えてくれる
昨年、アメリカのクラウドファンディングサイトで紹介され、面白そうなので購入してみた。初期トラブルなども多いが、アイデアが面白いし、身近なIOTとして広まるだろうと思っていた。
左は車のキイに装着したもの。右は自宅のキイホルダーに着けたも
の。面白いのはこのTrackRを車に入れておくと、駐車場で車を止めた場所を忘れてもiPhoneから、最後にiphoneと接続した場所を知らせてくれるので、見つけられる。このTrackRにヒントを得て、日本でも同じような機能をもつ「マモリオ」と言う製品が開発・発売されている。利用のアイデアが面白い。機能的には全く同じなので、多分マモリオは米国TrackRのパテントを利用あるいは提携していると思われる。

電車に忘れ物をすると、スマートフォンに通知してくれるーー。そんな実証実験を西武鉄道が8月1日からスタート。この「お忘れ物自動通知サービス」は、紛失防止IoTタグの「MAMORIO」(マモリオ)を手がけるスタートアップ企業MAMORIOとの提携で実現した。この「MAMORIO」は、Amazonで1個3780円(税込)で購入できる忘れ物防止IoTタグ。Bluetoothでスマートフォンとペアリングして利用する。同タグを付けた財布や鍵、バッグが手元から一定距離以上離れると、最後に確認できた時間と場所をスマートフォンで通知する仕組みだ。また、手元から離れたMAMORIOタグが、他のMAMORIOユーザーとすれ違うと、その場所を通知してくれる「みんなでさがす」機能もある。駅や商業施設に設置されているMAMORIOアンテナのエリア内に、MAMORIOタグをつけた忘れ物が入ると自動通知してくれる機能もあり、駅の忘れ物センターから忘れた人に連絡が出来るわけだ。実は、MAMORIOを活用した忘れ物通知サービスは、東急電鉄、京王電鉄などが試験導入。地下鉄事業者では東京メトロが6月から実証実験を行っている。

西武電鉄も実証実験に
何年かすると、このサービスは日本中に広まって、ごく当たり前のサービスになるだろう。ITの力で新しい価値を生み出すデジタルトランスフォーメーョンが急速に浸透している。車のシェアーライドサービス、UberやLyft、空き部屋シェアーサービス、AirBnBなど、新たな価値が既存の商流を変え、業界構造をも破壊してしまう「デジタルディスラプション」が各業種で起こりつつあることを実感する。「銀行の支店やATMに行くより、スマホで処理した方が便利」「タクシーより、スマホで呼べば来てくれるUberの方が便利」といった声は、銀行の業務や支店の存在意義、タクシー業界そのものが問い直されることにつながって行く。

TrackRやマモリオのようなIOT機器も、「テクノロジーを使う」から、「テクノロジーが社会に溶け込む」というフェーズに入っているのかも知れない。

Friday, July 28, 2017

タイの仏像展から


日本・タイ修好130周年記念
仏像展
大乗仏教の痕跡
千手観音のような
般若波羅蜜多立像
12世紀末頃
2017年は明治20年(1887年)に日タイ修好条約が結ばれて130周年記念となる年で、明治政府が東南アジア諸国と外交関係を結んだ初めての条約である。

この130周年を記念して「タイ~仏の国の輝き~」展が東京国立博物館で開催されているので見てきた。 タイでは人々の暮らしの中に仏教が息づいている、バンコクのような大都市でも、地方の農村や離島でも、朝、托鉢をする黄衣の僧侶に供物を捧げる人たちや、寺院でお祈りを捧げる人たちの姿は日常風景である。タイの仏教はインドからスリランカを経て伝えられた上座部仏教(南伝仏教)で釈迦像がメイン。しかし、今日のタイの姿になるまで、いろんな部族が興亡し、その間大乗仏教も一時伝播したことを、この展示会で初めて知り驚いた。大乗仏教では多数の宗派、多種多様な仏像とお経が創造され、伝播して行く。衰退はあってもその中で信仰した人々の痕跡が残るものだが、タイでは余り見当たらない。
初期の仏像
インドの影響が残る

日本には、インドから中国、朝鮮半島を経由して仏教が伝わり、その過程で多種多様な経典や仏像が生まれた。時代の背景とともに宗派の興亡はあったが、寺院、仏像などの姿で今日まで残ってきたため、実にバラエティに富んだ仏像が残る。明治政府の廃仏毀釈で数え切れないほどの仏教の歴史的遺産が消滅したにもかかわらず現在まで伝えられている仏像の種類、数は世界一かも知れない。



シャム王朝で王の側近になった
山田長政像
上座部仏教とは釈迦の弟子から伝えられ継承された「長老の教え」を意味し、出家と戒律を重んじる釈迦仏教の姿を伝えている。現在のタイ憲法では、「国王は仏教徒である」と規定され、王は仏教の擁護者であることが求められている。国民の90%以上が仏教徒であり、タイ文化に深く仏教が根ざしていることがわかる。タイの人々の温かさや微笑みは、タイの文化である。

日本とタイの関係は、琉球とアユタヤとの交流が古くからあり、アユタヤ王朝で日本人が要職に就いていたということも実証されている、あの山田長政だ。タイ人が初めて日本に来た記録は南北朝時代(1389年)に、タイの船が朝鮮半島の高麗王朝に入貢したついでに日本に立ち寄り、1年も滞在したと言う。
シャム王の近衛兵
丸刈りで薙刀を持っているのが日本人
ランナータイの仏像
アユタヤ王朝は日本ではシャムの名前で知られている。仏教国タイの歴史は、タイ族初期のスコータイやランナータイがスリランカから上座部仏教を王朝主導で受け入れたことから始まる。その後アユタヤ王朝は200年に亘り東西交易の拠点として仏教を基礎として繁栄を誇った。しかし、隣国ビルマ王朝の侵攻で壊滅。今日、観光でアユタヤを訪れた人は、首を落とされた多数の仏像の無残な姿を目にするだろう。
その後、ラーマ1世王が、現在のバンコックに、アユタヤの王都を再現する形で王宮を建設した。中でも仏教興隆事業はアユタヤ再現のため王がなすべき最も重要な仕事とされた。

昨年10月タイ中興の祖であったラーマ9世王が亡くなった。
タイの人々は「王は菩薩となり天界に昇られた、未来にはきっとまた王にまみえることができる」と言っており、タイ人の心に深く根ざした仏教文化の形を伝えている。
ずらりと並ぶ仏像達(すべて釈迦像)
タイでは涅槃仏が多い、涅槃の姿で微笑んでいる。
日本の涅槃仏は入滅後(目を閉じている)か
入滅直前(目を明けている)かどちかかである。
優雅な姿の遊行仏 衣の表現が素晴らしい