2019年2月9日土曜日

AI化は知らない間に浸透している

事前精算するとなぜ出口で
ゲートが開くのか?
テレビやネットでAI(人工知能)が話題になると、人間の仕事を奪う、さあ大変だみたいなことばかりで、うんざりする。マスコミの情報の伝え方はいつもセンセーショナルで煽るのが習いだ。しかし現実には、我々が知らないところで少しづつデジタル化やAI化が浸透しているのを感じる。先日も、何故こんなことができるのかと不審に思ったことがある。駐車場でのことだ。有料駐車場では入口で駐車券をもらう、そうするとバーが上がって入場できる。出るときは、出口で駐車券を入れてお金を払うとバーが上がる。
最近の大きな駐車場だと、現金決済で出口が混まないように事前に精算機でお金を支払える、でも駐車券は必要、出口では駐車券を入れればお金が不要でバーが上がるのが普通だ。ところが、あるデパートの駐車場で、事前に精算機で料金を支払い、駐車券を持参し、車で出口に向かった所、駐車券を出さないのにバーが自動的に上がった。何故ゲートは私の車がすでに駐車料金が支払い済みであることを知ったのだろうか。
ETCみたいに駐車券が電波を発してゲートとデータのやり取りをしているのかとも考えたが、駐車券は前と同じで、磁気媒体のもの、機械に読ませないで無線でやり取りすることは不可能のはず。不思議?????
答えはナンバープレート認識システムにあった
この間じっくり入場済の駐車券を見てたら疑問が氷解。入場券に入場時刻とならんで私の車の番号が印字されていた。要は入場したときにカメラで車のナンバープレートを撮影、デジタル化してシステムに上げているのだ。店内で精算した結果はナンバープレートと共にシステムに登録され、駐車場の出口で再びカメラによるナンバープレート認識でバーが上がる仕組みだ。単純な仕組みだがちゃんと機能しており、他の大規模駐車場でも同じことを経験したので、適用が広がっているのだろう。これは、カメラとAIによるナンバープレート認識とデジタル化の成果であることは確かだ。

このように生活の中で、知らない間にデジタル技術やAIが浸透し、活動が効率化されているのを感じることが多くなってきた。マスコミのインタービューでAI科学者に人工知能は怖くないかとの質問で、科学者は笑いながら、スマホは怖いですか?と答えていたのが印象的だった。スマホはほんの10年前の生活を抜本的に変化させている。
今誰もがポケットに入れているスマホは、ほんの20年前くらいにはとても高価で先端的な技術で作られた機器とソフトだった。現在のスマホで普通に使える機能は、その頃富裕層しか手にできなかったものばかりだ。

現在のスマホで使える機能のオリジンと価格を算出してみると全部で
1億円以上のものだった。スマホソフトやインターネット技術を
もっと価値が高くなるだろう。
このリストはハードウェアーが主だが、これにネットによるサービス、例えば
支払機能(アップルペイ)、
電子書籍(読み放題サービス)、
ニュース視聴、
TV(YouTube)、
予約サイト、
購入サイト(Amazon)、
健康モニタリングサービス(Apple 健康モニタリング)、
クラウドストレージ(1兆語で1万円/年)などを加えれば莫大な価値になるだろう。子供でもスマホを使っている時代、スマホに盛られている機能は、我々が気づかない間に実装されスマートになり、生活に浸透。しかもAIの利用によりさらに高度なサービスへと進化している。そしてスマホ
1台に多くの機能が集約されてきたように、人間活動のあらゆる分野で同様の機能進化と集約が始まっている。

特殊用途AIから汎用用途へ

2019年1月15日火曜日

日本最古の官寺 奈良大安寺 


奈良 大安寺を訪問した人は殆ど居ないのではないか。そのルーツは聖徳太子の「熊凝精舎」まで遡る最古の寺院の一つであるが、何度も再建され、移設され終には地震や戦乱で焼失。現在はわずかに小さな堂宇が残るのみである。だが平城京時代には、東大寺、西大寺に対して南大寺と称され、3大官寺(国立寺院)の第一として栄えた歴史を持つ。
寺伝による由緒を簡単にまとめると次の通り。


622年 推古天皇が田村皇子を遣わして、病床の聖徳太子の病気を見舞っ
   た折、太子の私寺、熊凝精舎を大寺(国営寺院)にすることを依頼
639年 田村皇子、百済川のほとりに初の官寺、百済大寺を建立するが、
    塔と金堂が焼失
668年 丈六釈迦仏像と菩薩像を安置する
仏像は宝物殿に集められている
673年 百済大寺を高市に移設し
    高市大寺(大官大寺)
    と称する。
711年 大官大寺、藤原京都ともに
    焼ける 
716年 大官大寺 平城京へ移設
745年 大官大寺を大安寺と
    あらためる
1116年 大江親道、大安寺を訪れる
1140年 大江親道 大安寺を訪れ七大寺巡礼記を書く
1596年 大地震で伽藍の殆どが全滅
金堂 堂宇はほとんどこれのみ

このように非常に古い歴史をもった寺院だが、今は広い敷地にぽつんと寂しく堂宇が残っているだけで盛時の面影を想像することが難しい。そんな中、奈良時代の古い仏像が残っているのも奇跡だ。しかし、平安期にまだ広大な寺域に伽藍があり、今は消失した釈迦如来像や菩薩像の様子などがわかる資料が残されている。
上記、年表中、大江親道が二度も大安寺を訪問した記録が、七大寺巡礼記として残されている。
その記録をたどると、消失した大寺院のことがわかる。
伝馬頭観音像
奈良時代

七大寺巡礼。879年10月清和上皇の大和国の名山巡礼以降,貴族による
南都七大寺(東大寺,興福寺,元興寺(がんごうじ),西大寺,薬師寺,大安寺,法隆寺)を巡る七大寺巡礼が大流行した。金峰山詣,長谷詣,熊野詣など有名だが,このような気運は藤原貴族と関係の深い南都諸大寺にも及び,法華寺,唐招提寺などの諸寺も巡拝の対象となった。1106年と40年の2回にわたって大江親道(?‐1151)は七大寺巡礼を行ったが,今日その時の記録として《七大寺日記》《七大寺巡礼私記》が伝えられ,院政期の諸大寺の実情を伝えるうえで貴重な資料とされている。
十一面観音
奈良時代

大江親道の詳しい履歴は分かっていない。平安時代末期、散位の者で(位階はあるが官職のない者)、位階は4位か5位の(侍従から地方長官職相当)の“貧乏貴族”だった(?)。『釈書』に「家産少なきも、恬淡として自ら守る」と書かれている。俗世界にいて仏教を重んじ、教典の中の仏舎利に関する文献類を集めたという。
そんな親通が、1116年に奈良の名刹を訪ね、現状を記録して『七大寺日記』を著した。それから34年たった(1140)、再び南都古寺を歴訪してできたのが『七大寺巡礼私記』である。このころ盛んになりつつあった末法思想・浄土思想に押され、また平安遷都から200年を経て繁栄の度を失いつつあった飛鳥時代以来の伝統を誇る、奈良の名刹の現状を見つめようという気持ちが強かったらしい。「建物や仏像の美しさとか立派さとかは、それぞれの人の目や心によって好悪の違いがある」と断言し、拝観した対象の優劣の判断は見る人に任すべきであると、美や芸術に対する根本態度を示していて、鑑賞の道を心得ている。ただ、特に気に入った作については「神妙なり」(立派だ)とか「見るべし」などと、自分なりの評価をしているのが面白い。彼の鑑賞眼が我々現代人の美術鑑賞方法と同じなので
好感が持てる 

山門は近年に再建
大安寺と同様、一度は寂れた薬師寺、興福寺などが最近
再建され立派になっていく中、忘れ去られようとする大安寺が不憫











2018年12月16日日曜日

女人高野 室生寺

かわいい五重塔
訪れてしばらく経ったが、初秋の室生寺にでかけた。奈良の寺院は市内を除くとどこも足の便が悪い。室生寺や長谷寺はその典型だ。電車でも、車で行っても遠い。前回行ったのはいつ頃だったのかも思い出せないが、女人高野の名にふさわしい美しく小さな五重塔だけが記憶に残っている。女人高野と優しい名称が魅力だが、実は「女人高野」と言われるようになったのはいつ頃か、はっきりしない。元々、この寺は法相宗だったが、天台宗も兼ねていた。その後、真言宗と天台宗の道場となり、現在は真言宗室生寺派の総本山である。江戸時代、元禄年間に徳川五代将軍綱吉の母、桂昌院の寄進を受けて堂塔の復興をしており、桂昌院という大スポンサーを得たことで、女人禁制の高野山に代わって女性に門戸を開いたという説がある。1998年の台風で樹木が五重塔に倒れ込み、5層目から1層目までが壊れどうなることかと心配したが、無事修復、以前と変わらぬ美麗な姿に戻った。その修理時、奈良文化財研究所が壊れた木材を年輪年代測定法で調査したところ、794年に伐採されたものと判明。塔の建立年代を800年頃とする従来の定説が裏付けられた。

国宝 金堂 釈迦如来立像他
わずか5間四方くらいのお堂に、5体の大きな仏像があり窮屈な感じがする。更に釈迦像を中心にしているのに、脇侍が揃っていないし、大きさもばらばらである。
白洲正子の十一面観音巡礼によると、「はじめは三尊像で、本尊の釈迦も実は薬師ではないかと言われている。そうなると脇侍の薬師も行き場を失うが、金堂の蟇股には薬壷が付いており、本尊が薬師如来であったことは疑えない。仏像の大きさも、形式もまちまちで、それはそのまま室生寺が経てきた複雑な歴史を物語っている。」としている。
金堂内陣 本尊は釈迦如来像とされるが、薬師如来の眷属である十二神将がいるので、
本来、薬師ではないかとも言われる

国宝 金堂壁画
金堂の来迎壁(諸仏を安置する内陣須弥壇の背後にある壁)の中央部に描かれている壁画。「板絵著色伝帝釈天曼荼羅図(金堂来迎壁)」の名称で国宝に指定されている。しかし、来迎壁の真正面に金堂本尊の釈迦如来像が立っているため、釈迦如来像の光背の右横にわずかに見えるだけだ。壁画は縦長のヒノキ材の板を横方向に5枚繋げた上に描かれ、白土下地に彩色されている。この壁画の主題は諸説あってよくわからないが、明治45年(1912年)、美術雑誌「国華」に「帝釈天曼荼羅」として紹介されて以来、「伝帝釈天曼荼羅」と称されている。9世紀後半ごろに描かれたようで、数少ない絵画作品の現存例として珍しい。


普段は見えない。右端の部分が釈迦如来像光背の横に少しだけ見えている


国宝 十一面観音立像 
高さ196.2cm カヤの一木造りで平安時代初期の作とされる。肉付きがふっくらとして、唇の朱色も生々しく残っており、女性らしいかわいい系のイメージが強い。日本の観音像は女性らしさを感じられるのが多いが、室生寺の十一面観音像は特にその感じがあり、女性に人気が高い理由もわかる。体軀には、装飾的で華麗な飜波式衣紋(ほんぱしきえもん)を鋭く切り込んであり、その上品な存在感は他に類例を見ない。乙女のような表情は、女人高野・室生寺にふさわしい。
女性的な十一面観音

弥勒堂 国宝 釈迦如来座像
今回の室生寺では、ぜひこの仏像に再会したかったのだが、弥勒堂は現在修復中、釈迦如来様は奈良国立博物館仏像館にお出かけとのこと。がっかりしたが、後日、奈良博・正倉院展に行った時、中央展示室の真ん中に座したお姿に会ってきた。仏像を鑑賞するにはこちらのほうがじっくり拝観できて良かったかも、その魅力は誰をも立ち去り難くさせる。
像高106.3センチ。普段は弥勒堂の本尊に向かって右に安置される。伝来や造像の由緒は一切不明だが、作風から平安時代前期(9世紀)の作とみられる。
写真家の土門拳は昭和十四年に初めて室生寺を訪れ、この仏像に心を奪われ、「天下第一の美男の仏像」と絶賛した。
弥勒堂 釈迦如来座像
美男におわす かな?
平安時代前期の仏像の白眉
土門拳 絶賛の美男仏像


2018年12月7日金曜日

建物とすべての仏像が国宝 蓮華王院三十三間堂

蓮華王院 三十三間堂
京都の三十三間堂には、誰でも一度は修学旅行や遠足で訪れたことがあるはず、でも二度・三度と行く人はそう多くない。大勢の人が押し寄せる京都国立博物館の真向かいにあるのに、ついでにこの寺院に寄って行こうという人は少ない、相変わらず修学旅行生の団体ばかりが目立つ。最近はインバウンドの観光客も多い。一度拝観すればもう十分かも知れないが、今一度訪問する値打ちがある。昭和48年から45年間をかけてすべての千手観音像を修理し続けた結果、今年10月、三十三間堂の建物(以前から国宝)を含めて全部の仏像が国宝に指定された。
中尊の千手観音坐像、その真後ろにある一体の千手観音立像、そして中尊の左右、各々500づつ、合計1001体の千手観音立像、さらに、観音の前にに並ぶ28部衆と風神・雷神像、合計1032体像がすべて国宝となった。1堂内にこれだけの国宝があるのは稀有なことだ。この修理完成を記念して、中尊の前に1・2メートルの高さから拝観できる「秋雲壇(しゅううんだん)」(幅1メートル、長さ7・8メートル)が初めて設けられ、国宝指定を祝う慶讃(けいさん)法要に合わせて、11月26日まで設置された。
千手観音立像 1001体ある
すべて国宝になった

仏像の配置図
中尊を挟んで左右に500体づつ
中尊の後ろに1体 合計1001体
この期間に合わせて、数十年ぶりに拝観した。堂の北端と南端に置かれた風神・雷神像と同じ目線で千手観音立像を眺められるよう、秋雲壇の高さは2像の台座と同じに造られている。壇に上ると、普段は前列の観音像に重なって見づらい後列の観音像の姿も見え、下から見るのとは全く異なった迫力で、群像美としての観音像が実感できる。普段は東京国立博物館、奈良国立博物館、京都国立博物館に寄託されている5体の観音像も11月末まで、期間限定で「里帰り」しており、1001体が一堂に会した姿を眺められた。
一体ずつ名前があり、よく見ると顔立ちが違う
蓮華王院本堂は、平安時代(1164年)に後白河上皇の御願、平清盛の請負で完成した。その後、1249年3月の大火で本堂は焼失、千体仏は156体が取り出された記録があるが、創建当初の仏像は124体である。2年後、1251年に本堂と仏像の再建工事がはじまる。本尊は運慶の長子で慶派の湛慶が大仏師として手がけ1254年に完成。千体千手観音像の再興は、1266年まで続けられ、その時に造られた876体が今に伝えられている。
この再興には奈良時代の京都(院派、円派、慶派)の全仏師が関わったと言われる。
右側が行快作

左側が湛慶作

後白河上皇の頃、世は末法思想で、阿弥陀信仰が盛んになり、また救いを求めて熊野詣が流行る。後白河上皇は特に熊野詣に熱心で34回も行幸している。
後白河上皇の院御所
法住寺殿界隈 
三十三間堂 新熊野神社 現在の京都国立博物館までの広大な領域
最前列に二十八部衆
さらには自身が開いた法住持殿に熊野神社を勧請し新熊野神社を造営する。三十三間堂のある地域は院御所であった。東は東山の裾野に及び、西は大和大路通(法性寺大路)、南は泉涌寺道(観音堂大路)、北は正面通(七条坊門小路)までが法住寺殿域内であった。現在の新熊野神社、ハイアットリージェンシーホテル、三十三間堂、京都国立博物館、方広寺跡までを含む広大な領域である。方広寺跡は公園になっているが、豊臣秀吉が京都の大仏を作ったので有名な方広寺も隣接していた。その北側は平清盛率いる平氏の拠点六波羅で、この時代、都で最も富と権力が集中していた場所でもあった。
恐らく、後白河上皇は来世の救いである阿弥陀信仰より、現世の利益をもたらす熊野詣や観音信仰に熱心だったので、院御所に1000体もの千手観音を造立したのだろう。
彼は古謡を集めた「梁塵秘抄」の編纂をさせ、自らも次のような歌を残している。
「万の仏の願よりも千年の誓いぞ頼もしき 枯れたる草木もたちまちに花咲き 実なるを説いたまふ」

中尊


2018年12月1日土曜日

三井記念美術館 仏像の姿展


東京日本橋・三井記念美術館で開催された「仏像の姿」展を見た。この展覧会のテーマは「仏師」である、仏師と言っても、平安時代の定朝や鎌倉時代の運慶、快慶という大仏師ではなく、時代や地域、社会的な地位を離れたいわば目の前にある仏像の作者を対象としている。展覧会のテーマである仏像の姿(かたち)の副題が、微笑む・飾る・踊るとなっていて、仏像の「顔」、「装飾」、「動きとポーズ」の3点に着目した展示。観客が自分の感性で、仏師の工夫、技術、独創性などを自由に楽しめるようになっている。いわゆる仏像の基準とか規範にとらわれることなく、美術として自由に鑑賞すればよいというスタンス。仏師がアーティストになる瞬間を見つけられれば面白い。また、東京芸術大学文化財保存学とのコラボによって、奈良時代以降の仏像制作時の仏師の立場で、模刻、復元、修復作業など、現代の東京芸大の仏師たちが作った作品も展示されている。

不動明王立像
歌舞伎の見得の形か
個人的には仏像の「動きとポーズ」をテーマとした仏像に惹かれた。もちろん西洋美術のような人体解剖に基づく人の動きやポーズとは同列ではない、もともと日本の仏像は坐像であれ、立像であれほとんど動きが無いのが普通。しかしじっくり見てみると、微妙な体の捻りや手足の上げ下ろしによる体の動きは随所に見つけられる。それを発見するのも面白い。さらに愉快なのは踊っている仏像たちの姿だ。宇治平等院鳳凰堂の本尊、阿弥陀如来像の壁面を飾る大勢の雲中供養菩薩が有名で美しいが、そこまで行かなくともユニークな動きをしている仏像もあり、思わず微笑んでしまう。
宇治平等院ミュジアムの踊る菩薩たちはこちらから

迦陵頻伽
胴体は人間、足は鳥 飛び回って踊る
五大明王
並べて見るとダンシング

菩薩楽団
竪琴・平琴・笛の合奏中

12神将たち
一体づつ大見得を切っている
阿弥陀如来の脇侍
よく見ると後ろ足をぴょんと跳ね上げている

仏像のトルソ
ギリシャ彫刻と見紛うような・・

東京芸大生が作った寄木造り像
どこが寄せ木になっているのか一目瞭然

11月の平日午前中に入ったので、空いていてじっくり時間をかけて鑑賞できた。いつものことながら、美術館で仏像を見るのが好きだ。十分な光、工夫された展示、的確で実証的な解説など満足感を得られる。最近、重文や国宝のある寺院が、ミュージアム化して本堂から仏教美術品を展示専用室で展示するところが増えてきた。私のように仏像を美術として鑑賞する人たちには歓迎すべき動きだが、信者にはどのように捉えられているのだろうか、気になるところだ。

2018年11月16日金曜日

コスモスと仏像 奈良 般若寺


境内15万本のコスモスが満開
十三重石塔は重文、5層目から阿彌陀佛が出て、
さらにその阿彌陀佛台座から3体の胎内仏が出た
秋晴れの一日、奈良の般若寺で満開のコスモスと古い仏像を拝見にでかけた。奈良般若寺と言われてもどんなお寺か、知らない人が多いだろう、私もネットで話題になるまで知らなかった。境内に四季折々に応じた草花を植えて、「奈良・花の寺」として知られている古い寺院だ。古い寺院と書いたが、般若寺の創建事情や時期については正史に記載がなく、創立者についても諸説あって、正確なところは不明だ。ただし、般若寺の境内からは奈良時代の古瓦が出土しており、奈良時代からこの地に寺院が存在していたことは確かなようだ。寺伝では舒明天皇元年(629年)、高句麗の僧・慧灌の創建とされ、天平7年(735年)、聖武天皇が伽藍を建立し、十三重石塔を建てて天皇自筆の大般若経を安置したという。もとの寺院は何度も焼失し、今の建物は鎌倉時代以降の造立である。
文殊菩薩像
本堂とコスモス
ご本尊は文殊菩薩騎獅像。文殊師利は般若経を説いた知恵の菩薩、1324年後醍醐天皇の御願成就のため、大仏師康俊が作った。この時期、十三重石塔の5層目から発見された阿弥陀如来像が特別公開されており、コスモスとこの如来像を目当てに大勢の観光客がやってくる。
1964年に重要文化財である十三重石塔(石造美術・第1号)の大修理の際丸い納入穴に錦の布で包まれ、木箱に納られていたもの。箱書きから聖武天皇が平城京の鬼門鎮護を祈念して奉納された霊像と記される。石塔は鎌倉時代の造立で、800年間塔内に秘蔵され、昭和になって出現したので、造仏の経緯や伝来については全く不明であるが、少しの傷みもなく伝わってきたのが素晴らしい。さらに、驚くべきは、この阿弥陀如来仏の台座部から和紙に包んで納入されていた3体の仏像が同時に発見された。石塔建立時に新造されたか、伝来の念持仏が奉納されたものだろうと推測される。小像ではあるが、彫刻は精緻で美しく威厳のある仏像だ。

重文 秘仏 阿弥陀如来像
頭・手足が大きく、お顔は白鳳時代の
様相が見られる
阿弥陀如来像の台座から発見された重文 秘仏 胎内仏
左から 地蔵菩薩 大日如来 十一面観音菩薩
名前こそ知られていないが、般若寺には他にも重文、国宝の史跡がある。資料が揃っていないので、有名度が低いが、花に惹かれて大勢の観光客が来ている。寺院の集客戦略が大当たりというところか。


重文 笠塔婆
宋人の石工 伊行吉が1261年父母の供養のため建立。
もと寺の南方、般若野と呼ぶ墓地の入り口にあった。
下部に銘文があり、宋人石工の事績が刻まれている貴重な資料


国宝 楼門
入母屋造り・本瓦葺きの楼門(2階建て門)。民家の建ち並ぶ京街道に面し、西を正面として建っており、鎌倉時代(13世紀後半)のもの。下層は1間、上層は3間。和様を基調とし、上層の組物など細部には大仏様(よう)の意匠が見られる。上層の出組の組物は、外部から見ると複雑な構造に見えるが、上層の組物は外側から釘止めまたは枘(ほぞ)差しとした見せかけのものだ。
国宝楼門
石仏とコスモス

2018年11月2日金曜日

第70回 正倉院展から




今年も、正倉院展が始まった。これが始まると本格的な秋の訪れを感じる。第1回目は1946年にスタート、「正倉院特別展観」の名前で開かれ、20日間で14万7487人が来場したと伝えられている。ちなみに61回目は2009年でこの時の来場者は同じく20日間で29万9294人の来場者で史上最高だった。今回は70回目。毎年、猛烈な人出で、混雑時には入場しても人の頭しか見えないことも多い、何とか混雑が少ない時に入りたいものだと色々工夫する。今回はネットで調べて平日の3時過ぎが良いとのコメントがあり、そのタイミングに入ってみた。これは正解、ほとんど待ち時間なしで入場できた、中は混雑しているが普段よりまし。以下、例によって私が美しいと思ったものを紹介する。

「平螺鈿背八角鏡(へいらでんはいはっかくきょう」
聖武天皇の身近にあったとされる鏡、青銅で作られており、裏側は夜光貝を使った螺鈿細工になっている。花の赤い部分は琥珀で隙間にトルコ石の粒を埋めた豪華な作りだが、明治時代に修復されている。


「玳瑁(タイマイ)螺鈿八角箱」
仏様へのお供えを入れた箱でとても豪華に飾られている。黄色と黒の部分はウミガメの一種、タイマイの甲羅を箱全体に貼ったもの。貝の螺鈿で花や鳥の文様を鮮やかに表現している。まるで今、完成したばかりのようだ。




「犀角如意(さいかくにょい)」 僧侶が手に持って威厳を整える仏具
まるで孫の手の様な形、全体では58cmあり、写真は飴色の先端部分のみで5.9cm、サイの角でできている。鳥や草花を透かし彫りにした象牙も見事な細工だ。水晶や金を使った美しく豪華な飾りが施されている。



「沈香木画箱(じんこうもくがのはこ)」
印籠蓋造りの長方形の献物箱。各面の中央に彩色のある水晶板を貼り、木画や沈香・紫檀の薄板で囲んである。沈香の部分には金泥で山水を描き、水晶の部分には極彩色で動物や草花を描く。また、床脚は象牙製で、鳥獣葡萄唐草文を透かし彫りするなど、手の込んだ作りである



「磁鼓(じこ)」陶製のつづみ
打楽器の鼓、両端に革を張って使う。緑色に白い斑点、黄色十字模様がある。唐の陶器「唐三彩」にならって、奈良時代に日本で作られた「奈良三彩」と呼ばれる焼き物。三彩の鼓は世界で唯一である。



「白銅剪子(はくどうせんし)」ろうそくの芯切りハサミ
ろうそくの炎の大きさを調節したり消したりする時、ろうそくの芯を切るのに使う。切り取った部分が落ちないように刃の形が工夫されている。似た形のハサミが朝鮮半島新羅でも発掘されている。1000年経っても機能は今と全く変わらない。デザイン的にはこちらの方が美しい。



「仏像金型」押出仏の金型
この型の上に銅板を置き、鎚(つち)で像容を打ち出したとみられる。この金型には使われた痕跡がなく、この型に合う押出仏は知られていない。 如来像は、切れ長の目や鼻筋の通った張りのあるお顔に特徴があり、体軀(たいく)も堂々として、奈良時代盛期の造像と考えられる。



他にも、刺繍飾りのくつが展示されていた。つま先に刺繍を施した女性用の室内履きで、絹や麻などで作られており、光明皇后が履いていたかも知れない。中国・トルファンで似た靴が見つかっており、中国製とみられる。1000年を超えて残り、伝えられて、今も当時の姿そのままを見ることの不思議さをいつも想う。8世紀のローマから延々とつながるシルクロードの終着点に正倉院があることが、奇跡だと言わざるを得ない。