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橘寺 |
また、謎の寺院「川原寺」とも道路を隔てて向かい合っているのも気になる。
飛鳥の宮の南の端に位置し、聖徳太子伝説の発祥の地である。
橘寺の名前は「田道間守(たじまのもり)」が垂仁天皇の命で中国へ不老不死の良薬を求めて、橘を得、10年後に戻ったところ、天皇は既に亡くなっていた。
その実を当地(明日香村橘 島の庄)に植えたところ、芽を出したので当地を橘と名付けられた。田道間守はその時、黒砂糖も一緒に持ち帰ったと伝えられており、彼は蜜柑・薬・菓子の祖神として崇められるようになった、今でも橘寺において追善法要が行われている。
橘寺の起源は不明だが、聖徳太子の父、用明天皇の離宮がもともと存在していたようだ。推古天皇14年(606年)、聖徳太子に当寺にて、勝鬘経を説かしめたもうとある。 さらに680年4月に橘寺の尼房で失火があり寺が焼けたとの記述が日本書紀にある。どうやら尼寺だったらしい。
万葉集に 「橘の寺の長屋にわが率寝し 童女放髪は髪あげつらむか」
(橘寺の長屋で私が一緒に寝たあの垂髪の少女はもう成人して髪を上げただろうか) 尼寺にしてはやけに艶っぽい歌が残っている。
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如意輪観音像 |
この観音像は右膝を立て、右手で頬杖をついて座っているスタイルで、他に余り見ない独特なポーズである。この姿を輪王座と呼ぶ。右手を頬にあて、物思いにふけっているスタイルを思惟像と言う。
思惟スタイルの仏は多いが、この如意輪観音像はふっくらとした、可愛らしく、妖艶な姿をしている。(しどけなくないか?)
境内に二面石と呼ばれる背中がくっついた顔の彫像がある。飛鳥は石造りの遺跡が多いが、おそらくこの二面石も、飛鳥の遺跡だろう。
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二面石 |
橘寺と道路を挟んで向かい側に川原寺がある。川原寺は飛鳥寺、薬師寺、大官大寺と並んで飛鳥四大寺であったが、平城遷都の時、他の三大寺はその本拠を平城宮に移設したが、川原寺だけは飛鳥の現在の地にとどまった。
平安時代に焼失。その後も再建されるが何度も火災にあいかつての規模を取り戻すことはなかった。
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川原寺跡 |
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